【INTRODUCTION】

『色道四十八手 たからぶね』Treasure Ship: Latitudes of Lust (Shikidō shijū hatte: takarabune) 渡辺護、ピンク映画監督。
1965年に『あばずれ』で監督デビューし、以後はピンク映画一筋の監督人生。
メロドラマ、サスペンス、ヤクザもの、実録犯罪もの、コメディー……。
1970年代には年に12本という驚異的なペースで仕事をしたが、良質な娯楽映画を何本も世に送り出した。
2013年、新作準備中にがんに倒れ、亡くなる。

50年以上の歴史を持つピンク映画だが、現存するものはほんのわずか。
渡辺護の映画もその大半が残っていないと思われていた。
だが、渡辺の死後、2014年に監督デビュー作『あばずれ』が発見される。
そして今、渡辺の最後の仕事がスクリーンに登場する。
晩年の渡辺護作品の脚本家・井川耕一郎が監督した渡辺護自伝的ドキュメンタリーである。

「渡辺さんがいて、カメラがあれば、映画はできるでしょう」という井川の言葉に応え、
渡辺は自分の人生を、ピンク映画を語った。
だが、これは単なる回顧録ではない。
渡辺の語りの中で、遠い昔が、ピンク映画の撮影現場の活気が甦る。
そして、渡辺護が甦る。

第一部『糸の切れた凧 渡辺護が語る渡辺護』

『色道四十八手 たからぶね』Treasure Ship: Latitudes of Lust (Shikidō shijū hatte: takarabune) ◇前篇◇(60分)
前篇で渡辺が主に語るのは少年時代。生まれ育った王子の町の人々、学校をさぼって見た映画、空襲、そして敗戦。饒舌な渡辺がふいに黙ってしまうのは、若くして亡くなった憧れの兄・優について語った直後。「生きてたらすごいと思うよ、うちの兄貴はきっと……」。映画や演劇を愛した兄の思いを受け継ぐように、渡辺は映画の世界へと向かっていくことになる。

◆後篇◆(62分)
後篇で渡辺が語るのは監督としてデビューするまで。演劇青年からTV ドラマの俳優へ。そして教育映画の助監督になり、ピンク映画の世界へ。デビュー作『あばずれ』について詳しく語る渡辺。だが、彼の語る『あばずれ』は死後に発見された『あばずれ』と異なる部分がある。おれならこう撮ると考える監督らしい癖が記憶を変形させたのか。死ぬまで現役であり続けようとした執念が静かに燃えている。

これは単なる序論ではない。200本以上の映画を撮った男が自分の人生を語るのだ。
当然その語り口は、映画と似ているし、それは映画そのものだ。

第二部『つわものどもが遊びのあと 渡辺護が語るピンク映画史』

『色道四十八手 たからぶね』Treasure Ship: Latitudes of Lust (Shikidō shijū hatte: takarabune) ◇前篇◇(65分)
前篇に登場するのは若松孝二、沖島勲、向井寛、山本晋也、小森白。渡辺は新人監督時代にデビュー作『あばずれ』を超えられないという秘かな悩みがあったことを告白。悪戦苦闘する中、主観カット/客観カット理論が生まれる。「おれは面白い映画が撮れる!っていう自信みたいなものが出てきた」

◆後篇◆(73分)
後篇に登場するのは、荒井晴彦、高橋伴明、小水一男、滝田洋二郎。『㊙湯の街 夜のひとで』を撮っていた頃に感じていたことを渡辺が語る。「おれの中にいつか監督ができなくなる……みたいな思いがあった」。活気のある撮影現場を醒めた目で見つめる売れっ子監督。そして80 年代半ば、おれの時代は去ったと感じる。それでも、渡辺は言う。「おれの人生の中で一番大きいのはピンク映画時代ですよ」

撮って飲んで喧嘩してをくりかえすピンク映画のつわものどもの群像喜劇!
これぞまさしく真の日本映画史、「ピンク映画史」だ。

第三部~第十部「渡辺護が語る自作解説」

第三部~第十部は自作解説篇になり、渡辺護監督作品とのセット上映を前提としている(たとえば、『おんな地獄唄 尺八弁天』(70)+『渡辺護が語る自作解説 弁天の加代を撮る』といったように)。
また、上映作品だけでなく、関連する作品についての話も入れるようにした。渡辺護さんの200本以上ある作品群の中にどんな流れが見出せるのかを示したかったからである)。

第三部『渡辺護が語る自作解説 弁天の加代を撮る』(30分)

第三部で話題となるのは、弁天の加代を主人公にしたシリーズの第一作『男ごろし 極悪弁天』(69)と、第二作『おんな地獄唄 尺八弁天』(70)。
ちなみに、弁天の加代ものには、第三作『濡れ弁天御開帳』がある(ただし、主演は香取環ではなく、林美樹)。また、女ヤクザものというふうに見方を広げれば、『観音開き 悪道女』(70)も関連があることになる。

第四部『渡辺護が語る自作解説 エロ事師を撮る』(30分)

『(秘)湯の街 夜のひとで』(70)について、渡辺護さんはすでに第二部『つわものどもが遊びのあと 渡辺護が語るピンク映画史』である程度詳しく語っている。そこで、第四部ではエロ事師たちを描いた他の映画――『男女和合術』(72)、『性姦未公開図』(74)との関連に注目することにした。
『男女和合術』、『性姦未公開図』は、『(秘)湯の街 夜のひとで』の変奏とも言える映画だが、性を客に見せる芸人たちを描いた作品の流れを考えれば、『シロクロ夫婦』(69)、『多淫な痴女』(73)、『おかきぞめ 新・花電車』(75)、『好色花でんしゃ』(81)などが視野に入ってくるだろう(『好色花でんしゃ』に自作解説篇はYouTubeにて公開中 こちら)。

第五部『渡辺護が語る自作解説 緊縛ものを撮る(一)拷問ものから緊縛ものへ』(35分)

「緊縛ものを撮る」は三部からなる。緊縛ものを例に、ジャンルがどのようにして生まれるのかを探ってみた。
第五部で主に語られる作品は、『谷ナオミ 縛る!』(77)と『少女を縛る!』(78)。
渡辺護の緊縛ものと言うと、『谷ナオミ 縛る!』、『少女縄化粧』(79)が有名だが、内容的に見て、『少女を縛る!』はきわめて重要な作品だと思う。緊縛ものという枠をはずしても、渡辺護の代表作の一本であると言えるのではないだろうか。

第六部『渡辺護が語る自作解説 緊縛ものを撮る(二)処女作への回帰』(30分)

第六部で話題となるのは、日野繭子主演の『少女縄化粧』(79)。前半は2010年に映画美学校で行ったインタビュー、後半は2012年に銀座シネパトスで『少女縄化粧』上映後に行われたトークショーである。
ドキュメンタリーを撮っていく中で分かったことだが、この作品は渡辺護の監督デビュー作『あばずれ』(65)の緊縛時代劇版リメイクだった(『あばずれ』については、第一部『糸の切れた凧 渡辺護が語る渡辺護』の後半で詳しく論じている)。
『あばずれ』のリメイクはもう一本ある――夏麗子主演の『変態SEX 私とろける』(81)。発見された『あばずれ』のフィルムとともに、三本立てで上映できれば面白いと思うのだが……。

第七部『渡辺護が語る自作解説 緊縛ものを撮る(三)権力者の肖像』(30分)

第七部で主に話題となる作品は日野繭子主演の『聖処女縛り』(79)。渡辺護によれば、『谷ナオミ 縛る!』(77)あたりから始まった緊縛ものというジャンルをつくりだす試みは、この作品で一区切りついたという。
また、『聖処女縛り』では、鶴岡八郎演じる特高の刑事を通して権力者の愚かさ、あわれさを描いたとも言い、モデルとなったある人物についても言及している。
第七部後半で語られるのは、80年代以後の緊縛ものについて。『激撮!日本の緊縛』(80)など、小水一男脚本で撮った緊縛ものの特徴について自己分析をしている。

第八部『渡辺護が語る自作解説 事件ものを撮る』(30分)

ある事件が世間を騒がせている間にさっさと映画にしてしまうというのは、ピンク映画が得意とするものだった。渡辺護もそうした事件ものを撮っているが、彼を衝き動かしていたものは「これは商売になる!」という勘だけではなかった。事件ものの背後には、人間に対するまっとうな関心があった。
第八部で取り上げる作品は、大久保清事件の『日本セックス縦断 東日本篇』(70)、大阪「クラブ・ジュン」ホステス強姦殺人事件の『十六才 愛と性の遍歴』(73)、勝田清孝事件の『連続殺人鬼 冷血』(84)の三本。 この他にも、渡辺護は女子高生誘拐監禁事件の『16歳の経験』(70)、立教助教授教え子殺人事件の『女子大生性愛図』(74)といった事件ものを撮っている。

第九部『渡辺護が語る自作解説 新人女優を撮る』(30分)

「スクリーンに演技力など映らない。映るのは存在感だけだ」と渡辺護はよく言っていたが、この言葉は魅力的な新人女優を撮ったときの経験に基づいている。
第九部で言及される主な作品は、東てる美の『禁断性愛の詩』(75)、美保純の『制服処女の痛み』(81)、『セーラー服色情飼育』(82)の三本。渡辺護が新人女優を撮るよろこびを時にあきれてしまうくらい生き生きと語っている。
渡辺護の新人女優に対するこだわりは、監督第二作『紅壺』(65)から始まる。おそらく、主演の真山ひとみを撮っているときに感じた恋愛感情すれすれのよろこびがいつまでも忘れられなかったのではないだろうか。

第十部『渡辺護が語るピンク映画史(補足)すべて消えゆく ピンク映画1964-1968』(30分)

当初、第十部は初期作品の自作解説篇とする予定だったのだが、ラッシュを見直すうち、考えが変わった。渡辺さんは自作よりも初期のピンク映画の現場にいたひとたちについて語りたかったのではないか……と思えてきたのだ。
第十部で、渡辺護は助監督時代、新人監督時代に出会ったひとたちのことを語っている。南部泰三、関喜誉仁、竹野治夫、遠藤精一、栗原幸治、山下治――彼らは、若松孝二、向井寛、山本晋也といったひとたちと比べると、ピンク映画史的にはそれほど重要ではないかもしれない。けれども、彼らが現場にいて働いていたことは事実なのだ。
すべては消えゆくかもしれないが、渡辺護はそれに逆らうようにして自分の体が記憶していることを語っている。

自作解説篇で私たちが目指したものは、渡辺護の作家的特徴の早分かりではなかった。
映画監督・渡辺護の作家性は対話の中から生まれた――脚本家との、キャメラマンとの、役者との、観客との、今まで見てきた映画との、過去の自作との……対話から生まれ、磨かれていったのだ。
私たちはそんな対話の重要性を伝えることを目的にして自作解説篇をつくってみた。
対話の積み重ねこそ、歴史の真中を流れるものだ。
私たちの試みが少しでも、これからピンク映画史や日本映画史に取り組もうとする人たちの役に立てばいいのだが……。

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